2014年09月10日
佐渡島番外編 ②
@ 郷土芸能(民謡ショー)
2日目宿泊先≪ホテル八幡館≫で 夜に民謡ショーがありました。


佐渡おけさ・相川音頭・両津甚句の唄と手踊りでした。
佐渡おけさの手踊りは、宿泊客の中に希望者がいれば、講習を開き、認定書を交付するサービスがある、という事で
当方の団体から3名参加して、認定書を貰っていましたね
・・・ですが 私は≪鬼太鼓(おんでこ)≫の方に興味があり
ホテルに到着するなり 目に飛び込んできたのは・・・

おぉ~~~~ 鬼太鼓のセットじゃありませんか
夜にでも演奏があるのかと思い ホテルの方に聞けば・・・
「演奏は 土日祭日だけです」とのこと! 残念でした
※≪佐渡の鬼太鼓≫Yon tube
@ 小木のたらい舟
時間があれば たらい舟に乗ってみたかったのですが
フェリーの乗船時間の関係上
他の観光客さんが乗っているのを バス内から眺めただけ


次回 行く機会があれば 是非 乗りたいですね!
@ ハローキティ ストラップセット 新潟交通バージョン

新潟交通さん 3日間お世話になりました
2日目宿泊先≪ホテル八幡館≫で 夜に民謡ショーがありました。
佐渡おけさ・相川音頭・両津甚句の唄と手踊りでした。
佐渡おけさの手踊りは、宿泊客の中に希望者がいれば、講習を開き、認定書を交付するサービスがある、という事で
当方の団体から3名参加して、認定書を貰っていましたね

・・・ですが 私は≪鬼太鼓(おんでこ)≫の方に興味があり
ホテルに到着するなり 目に飛び込んできたのは・・・
おぉ~~~~ 鬼太鼓のセットじゃありませんか

夜にでも演奏があるのかと思い ホテルの方に聞けば・・・
「演奏は 土日祭日だけです」とのこと! 残念でした

※≪佐渡の鬼太鼓≫Yon tube
@ 小木のたらい舟
時間があれば たらい舟に乗ってみたかったのですが
フェリーの乗船時間の関係上
他の観光客さんが乗っているのを バス内から眺めただけ

次回 行く機会があれば 是非 乗りたいですね!
@ ハローキティ ストラップセット 新潟交通バージョン

新潟交通さん 3日間お世話になりました
2014年09月10日
佐渡島番外編 ①
@ チャールズ・ジェンキンスさん
北朝鮮拉致被害者 曽我ひとみさんのご主人です。
佐渡歴史伝説館内に 等身大の看板がありまして

矢印の先を見ると ご本人さんがいらっしゃいました。
お店の店員さんが
「太鼓番せんべいはブルーリボン運動奨励品で、売上の2パーセントを拉致被害救済に役立てていま~す。お菓子を一箱買ってくださ~い。」
ということなので 一箱を購入させていただきました。
その後 店員さんが「お写真 どうぞ!!」って・・・

2006年から この伝説館内で働かれていらっしゃますが
今回 初めてお会いして思うに
言葉は悪いですが お店の客寄せパンダ状態になっているような・・・・
私が離れると
すぐさま おばちゃんたちが数人 カメラを構えていました
お年も召されていますが
これからも お元気で頑張って欲しいです
今年は 拉致問題に於いても 節目の年になりそうです。
@ 赤玉石


【佐渡市の赤玉地区より産出されるものだけを佐渡赤玉石といいます。
鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く(硬度は6.5~7.0)磨いたときに透明感のある光沢がでます。
色彩の美しさは日本一と言われて日本三大名石のひとつとされます。
”赤玉”という呼び方には、二つの説があります。
一つは玉のように一つずつ出てくるからだと言う説と
もう一つは玉(ぎょく)のような輝きをもつ石だから赤玉石というと言う説がありますが、現在では後者の説が一般的です。
天正18年に真野俊隆が佐渡産の赤石を豊臣秀吉に献上したことがあり、このときは”朱真石”と呼んだといわれます。
弥生時代より加工され、勾玉や管玉として装飾品に使われ、江戸時代にはキセルの根付などにも使われました。
適度な大きさのものは、磨いても自然のままでみても良いことから観賞石や水石として珍重され
また大きなものは、庭石として使われました。
庭石としては石組みに使うものではなく、必ず一石を庭や玄関等の目立つ所に置き眺める飾り石です。
また古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ
佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました。
しかし、昭和57年以降では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっています。】
・・・ということで 販売価格も 良いものは 目が飛び出るほど高価です。


上の写真の庭石クラスになると うん千万 うん百万の価格帯です。
購入は 高額宝くじが当たらない限り 無理です
北朝鮮拉致被害者 曽我ひとみさんのご主人です。
佐渡歴史伝説館内に 等身大の看板がありまして
矢印の先を見ると ご本人さんがいらっしゃいました。
お店の店員さんが
「太鼓番せんべいはブルーリボン運動奨励品で、売上の2パーセントを拉致被害救済に役立てていま~す。お菓子を一箱買ってくださ~い。」
ということなので 一箱を購入させていただきました。
その後 店員さんが「お写真 どうぞ!!」って・・・
2006年から この伝説館内で働かれていらっしゃますが
今回 初めてお会いして思うに
言葉は悪いですが お店の客寄せパンダ状態になっているような・・・・
私が離れると
すぐさま おばちゃんたちが数人 カメラを構えていました

お年も召されていますが
これからも お元気で頑張って欲しいです

今年は 拉致問題に於いても 節目の年になりそうです。
@ 赤玉石
【佐渡市の赤玉地区より産出されるものだけを佐渡赤玉石といいます。
鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く(硬度は6.5~7.0)磨いたときに透明感のある光沢がでます。
色彩の美しさは日本一と言われて日本三大名石のひとつとされます。
”赤玉”という呼び方には、二つの説があります。
一つは玉のように一つずつ出てくるからだと言う説と
もう一つは玉(ぎょく)のような輝きをもつ石だから赤玉石というと言う説がありますが、現在では後者の説が一般的です。
天正18年に真野俊隆が佐渡産の赤石を豊臣秀吉に献上したことがあり、このときは”朱真石”と呼んだといわれます。
弥生時代より加工され、勾玉や管玉として装飾品に使われ、江戸時代にはキセルの根付などにも使われました。
適度な大きさのものは、磨いても自然のままでみても良いことから観賞石や水石として珍重され
また大きなものは、庭石として使われました。
庭石としては石組みに使うものではなく、必ず一石を庭や玄関等の目立つ所に置き眺める飾り石です。
また古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ
佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました。
しかし、昭和57年以降では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっています。】
・・・ということで 販売価格も 良いものは 目が飛び出るほど高価です。



上の写真の庭石クラスになると うん千万 うん百万の価格帯です。
購入は 高額宝くじが当たらない限り 無理です

2014年09月10日
トキの森公園
参照HP http://tokinotayori.com/tokipark/
見学時間が30分
もう少し 時間が欲しかったですね!




最初は≪トキ資料展示館≫





続いて≪観察回廊≫

飼育ゲージが相当に離れていますので 私のカメラでは これが限界


最後に≪トキふれあいプラザ≫へ
道の脇には・・・

トキの顔が書かれた小石が ずっ~~~~~と並んでいます
ガラス越しに近づいてくれば 良かったのですが この日は離れた場所で活動中だったので
またもや 写真も限界
何十枚も撮ったのですが ほとんど ブレブレ
・・・の中のピントがあった写真 ↓



生で見るトキは 本当に綺麗な鳥でした。
いつか トキの集団が佐渡の大空を飛ぶ姿を想像して
少額ですが トキ保護募金箱に寄付してきました。
※トキ保護募金推進委員会HP http://www.tokibokin.jp/
見学時間が30分

もう少し 時間が欲しかったですね!
最初は≪トキ資料展示館≫
続いて≪観察回廊≫
飼育ゲージが相当に離れていますので 私のカメラでは これが限界

最後に≪トキふれあいプラザ≫へ
道の脇には・・・
トキの顔が書かれた小石が ずっ~~~~~と並んでいます
ガラス越しに近づいてくれば 良かったのですが この日は離れた場所で活動中だったので
またもや 写真も限界

何十枚も撮ったのですが ほとんど ブレブレ

・・・の中のピントがあった写真 ↓
生で見るトキは 本当に綺麗な鳥でした。
いつか トキの集団が佐渡の大空を飛ぶ姿を想像して
少額ですが トキ保護募金箱に寄付してきました。
※トキ保護募金推進委員会HP http://www.tokibokin.jp/
2014年09月10日
真野御陵(まののみささぎ)
順徳天皇火葬塚ですが 御陵と同じ取り扱いで宮内庁書陵部が管理しています。


順徳天皇は 仁治3年(1242)9月12日 享年46歳で崩御され
翌13日に この地にてご火葬にされ そのあとに松と桜を植えて目印とし
ご遺骨は翌年京都へ帰るまでここに埋められ 大原の法華堂 後鳥羽天皇御陵の傍に納められたと伝えられています。



周囲には 立派な玉垣が整備されています。

火葬塚は ご遷幸当時行在所であった国分寺が管理し 末寺の真輪寺が別当として直接に奉仕していましたが
応仁の乱後 諸国粉乱の余波をうけて大変荒廃したため
江戸時代になって国分寺の賢教と真輪寺の賢照が連名で
時の佐渡奉行曾根五郎兵衛に修築を願い出て完成したのが現在の火葬塚だそうです。
≪石抱の梅≫
この御陵から少し離れた場所に 順徳天皇ゆかりの梅の木がありました。


御陵入口にある 真野観光センターの方がおっしゃっていましたが
「最近は御陵に訪れる方が めっきり減りました」とのことでした。
少し さみしい気がしましたね。
順徳天皇は 仁治3年(1242)9月12日 享年46歳で崩御され
翌13日に この地にてご火葬にされ そのあとに松と桜を植えて目印とし
ご遺骨は翌年京都へ帰るまでここに埋められ 大原の法華堂 後鳥羽天皇御陵の傍に納められたと伝えられています。
周囲には 立派な玉垣が整備されています。
火葬塚は ご遷幸当時行在所であった国分寺が管理し 末寺の真輪寺が別当として直接に奉仕していましたが
応仁の乱後 諸国粉乱の余波をうけて大変荒廃したため
江戸時代になって国分寺の賢教と真輪寺の賢照が連名で
時の佐渡奉行曾根五郎兵衛に修築を願い出て完成したのが現在の火葬塚だそうです。
≪石抱の梅≫
この御陵から少し離れた場所に 順徳天皇ゆかりの梅の木がありました。
御陵入口にある 真野観光センターの方がおっしゃっていましたが
「最近は御陵に訪れる方が めっきり減りました」とのことでした。
少し さみしい気がしましたね。
2014年09月10日
真野宮(まのぐう)
今回の参拝旅行の行程には 当初入ってなかった神社です。
9月8日の昼食場所であった、佐渡歴史伝説館の直ぐ脇に鎮座していましたので
バス出発までのわずかな時間を利用して参拝させていただきました。
社名≪真野宮(まのぐう)≫









真野宮は、元は真輪寺と言い、国分寺末寺であったため御火葬塚の直接の管理をしていましたが
明治元年の廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年「真野宮」と改称。
現在の社殿は大正9年の竣工で、昭和17年の700年祭には、鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域が拡張。
社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが残っているそうです。
鎌倉幕府は、源実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので
後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣が下されました。
そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り
父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げました(承久の乱)が敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となり
以後、在島22年、ついに帰京の願いは叶えられることは無く
享年46歳(満45歳)の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられている。
9月9日に真野御陵(順徳天皇火葬塚)を参拝する予定だったので
この御社に立ち寄れたのも 何がしかの御縁があったのでしょうか
9月8日の昼食場所であった、佐渡歴史伝説館の直ぐ脇に鎮座していましたので
バス出発までのわずかな時間を利用して参拝させていただきました。
社名≪真野宮(まのぐう)≫
真野宮は、元は真輪寺と言い、国分寺末寺であったため御火葬塚の直接の管理をしていましたが
明治元年の廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年「真野宮」と改称。
現在の社殿は大正9年の竣工で、昭和17年の700年祭には、鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域が拡張。
社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが残っているそうです。
鎌倉幕府は、源実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので
後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣が下されました。
そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り
父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げました(承久の乱)が敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となり
以後、在島22年、ついに帰京の願いは叶えられることは無く
享年46歳(満45歳)の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられている。
9月9日に真野御陵(順徳天皇火葬塚)を参拝する予定だったので
この御社に立ち寄れたのも 何がしかの御縁があったのでしょうか

2014年09月10日
佐渡国一の宮
通算六十社目(9月8日参拝)
≪度津神社(わたつじんじゃ)≫

※参照HP ウイキペディア≪度津神社≫
第二鳥居より 第一鳥居を振り返って!(こちらが最初の入り口となります)

第二鳥居より・・・









宮司様を始め職員の皆様には 正式参拝等 大変 お世話になりました。
≪度津神社(わたつじんじゃ)≫
※参照HP ウイキペディア≪度津神社≫
第二鳥居より 第一鳥居を振り返って!(こちらが最初の入り口となります)
第二鳥居より・・・
宮司様を始め職員の皆様には 正式参拝等 大変 お世話になりました。
2014年09月10日
越後国一の宮
通算五十九社目(9月7日参拝)
≪彌彦神社(やひこじんじゃ)≫
※参照HP http://www.yahiko-omori.com/
玄松子の記憶HPより








拝殿正面より右面

拝殿正面より左面

権宮司様を始め職員の皆様方には 正式参拝、宝物殿拝観等 大変 お世話になりました。
≪彌彦神社(やひこじんじゃ)≫
※参照HP http://www.yahiko-omori.com/
玄松子の記憶HPより
拝殿正面より右面
拝殿正面より左面
権宮司様を始め職員の皆様方には 正式参拝、宝物殿拝観等 大変 お世話になりました。